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第1章 生き残った男の子 CHAPTER ONE The Boy Who Lived  プリベット通り四番地の住人ダーズリー夫妻は、「おかげさまで、私どもはどこからみてもまともな人間です」と言うのが自慢だった。不思議とか神秘とかそんな非常識はまるっきり認めない人種で、まか不思議な出来事が彼らの周辺で起こるなんて、とうてい考えられなかった。  ダーズリー氏は、穴あけドリルを製造しているグラニングズ社の社長だ。ずんぐりと肉づきがよい体型のせいで、首がほとんどない。そのかわり巨大な口ひげが目立っていた。奥さんの方はやせて、金髪で、なんと首の長さが普通の人の二倍はある。垣根越しにご近所の様子を詮索するのが趣味だったので、鶴のような首は実に便利だった。ダーズリー夫妻にはダドリーという男の子がいた。どこを探したってこんなにできのいい子はいやしない、というのが二人の親バカの意見だった。  そんな絵に描措いたように満ち足りたダーズリー家にも、たった一つ秘密があった。なにより怖いのは、誰かにその秘密を嗅ぎつけられることだった。  ―――あのポッター一家のことが誰かに知られてしまったら一巻の終わりだ。  ポッタ一夫人はダーズリー夫人の実の妹だが、二人はここ数年一度も会ってはいなかった。  それどころか、ダーズリー夫人は妹などいないというふりをしていた。なにしろ、妹もそのろくでなしの夫も、ダーズリー家の家風とはまるっきり正反対だったからだ。  ―――ポッター一家が不意にこのあたりに現れたら、ご近所の人たちがなんと言うか、考えただけでも身の毛がよだつ。  ポッター家にも小さな男の子がいることを、ダーズリー夫妻は知ってはいたが、ただの一度も会ったことがない。  ―――そんな子と、うちのダドリーが関わり合いになるなんて……  それもポッター一家を遠ざけている理由の一つだった。  さて、ある火曜日の朝のことだ。ダーズリー一家が目を覚ますと、外はどんよりとした灰色の空だった。物語はここから始まる。まか不思議なことがまもなくイギリス中で起ころうとしているなんて、そんな気配は曇り空のどこにもなかった。ダーズリー氏は鼻歌まじりで、仕事用の思いっきりありふれた柄のネクタイを選んだ。奥さんの方は大声で泣きわめいているダドリー坊やをやっとこさベビーチェアに座らせ、嬉々としてご近所の噂話を始めた。  窓の外を、大きなふくろうがバタバタと飛び去っていったが、二人とも気がつかなかった。  八時半、ダーズリー氏は鞄を持ち、奥さんの頬にちょこっとキスして、それからダドリー坊やにもバイバイのキスをしようとしたが、しそこなった。坊やがかんしゃくを起こして、コーンフレークを皿ごと壁に投げつけている最中だったからだ。「わんぱく坊主め」ダーズリー氏は満足げに笑いながら家を出て、自家用車に乗りこみ、四番地の路地をバックで出て行った。広い通りに出る前の角のところで、ダーズリー氏は、初めて何かおかしいぞと思った。  ――なんと猫が地図を見ている――ダーズリー氏は一瞬、目を疑った。もう一度よく見ようと急いで振り返ると、たしかにプリベット通りの角にトラ猫が一匹立ちどまっていた。しかし、地図のほうは見えなかった。ばかな、いったい何を考えているんだ。きっと光のいたずらだったにちがいない。ダーズリー氏は瞬きをして、もう一度猫をよく見なおした。猫は見つめ返した。角を曲がり、広い通りに出たとき、バックミラーに映っている猫が見えた。なんと、今度は「プリベット通り」と書かれた標識を読んでいる。――いや、「見て」いるだけだ。猫が地図やら標識やらを読めるはずがない。ダーズリー氏は体をブルッと振って気をとりなおし、猫のことを頭の中から振り払った。街に向かって車を走らせているうちに、彼の頭は、その日に取りたいと思っている穴あけドリルの大口注文のことでいっぱいになった。  ところが、街はずれまで来た時、穴あけドリルなど頭から吹っ飛ぶようなことが起こったのだ。いつもの朝の渋滞にまきこまれ、車の中でじっとしていると、奇妙な服を着た人たちがうろうろしているのが、いやでも目についた。マントを着ている。  ――おかしな服を着た連中には我慢がならん――近頃の若いやつらの格好ときたら! マントも最近のバカげた流行なんだろう。  ハンドルを指でイライラと叩いていると、ふと、すぐそばに立っているおかしな連中が目に止まった。何やら興奮してささやき合っている。けしからんことに、とうてい若いとはいえないやつが数人混じっている。  ――あいつなんか自分より年をとっているのに、エメラルド色のマントを着ている。どういう神経だ! まてよ。ダーズリー氏は、はたと思いついた。  ――くだらん芝居をしているに違いない――当然、連中は寄付集めをしているんだ……そうだ、それだ! やっと車が流れはじめた。数分後、車はグラニングズ社の駐車場に着き、ダーズリー氏の頭は穴あけドリルに戻っていた。  ダーズリー氏のオフィスは九階で、いつも窓に背を向けて座っていた。そうでなかったら、今朝は穴あけドリルに集中できなかったかもしれない。真っ昼間からふくろうが空を飛び交うのを、ダーズリー氏は見ないですんだが、道行く多くの人はそれを目撃した。ふくろうが次から次へと飛んで行くのを指さしては、いったいあれは何だと口をあんぐりあけて見つめていたのだ。ふくろうなんて、たいがいの人は夜にだって見たことがない。ダーズリー氏は昼まで、しごくまともに、ふくろうとは無縁で過ごした。五人の社員を怒鳴りつけ、何本か重要な電話をかけ、また少しガミガミ怒鳴った。おかげでお昼までは上機嫌だった。それから、少し手足を伸ばそうかと、道路のむかい側にあるパン屋まで歩いて買い物に行くことにした。  マントを着た連中のことはすっかり忘れていたのに、パン屋の手前でまたマント集団に出会ってしまった。そばを通り過ぎる時、ダーズリー氏は、けしからんとばかりににらみつけた。  なぜかこの連中は、ダーズリー氏を不安な気持にさせた。このマント集団も、何やら興奮してささやき合っていた。しかも寄付集めの空缶が一つも見当たらない。パン屋からの帰り道、大きなドーナツを入れた紙袋を握り、また連中のそばを通り過ぎようとしたその時、こんな言葉が耳に飛び込んできた。 「ポッターさんたちが、そう、わたしゃそう聞きました……」 「……そうそう、息子のハリーがね……」  ダーズリー氏はハッと立ち止まった。恐怖が湧きあがってきた。いったんはヒソヒソ声のするほうを振り返って、何か言おうかと思ったが、まてよ、と考えなおした。  ダーズリー氏は猛スピードで道を横切り、オフィスにかけ戻るや否や、秘書に「誰も取り継ぐな」と命令し、ドアをピシャッと閉めて電話をひっつかみ、家の番号を回しはじめた。しかし、ダイヤルし終わらないうちに気が変わった。受話器を置き、口ひげをなでながら、ダーズリー氏は考えた  ――まさか、自分はなんて愚かなんだ。ポッターなんて珍しい名前じゃない。ハリーという名の男の子がいるポッタ一家なんて、山ほどあるに違いない。考えてみりゃ、甥の名前がハリ-だったかどうかさえ確かじゃない。一度も会ったこともないし、ハービーという名だったかもしれない。いやハロルドかも。こんなことで妻に心配をかけてもしょうがない。妹の話がチラッとでも出ると、あれはいつも取り乱す。無理もない。もし自分の妹があんなふうだったら……それにしても、いったいあのマントを着た連中は……  昼からは、どうも穴あけドリルに集中できなかった。五時に会社を出た時も、何かが気になり、外に出たとたん誰かと正面衝突してしまった。 「すみません」  ダーズリー氏はうめき声を出した。相手は小さな老人で、よろけて転びそうになった。数秒後、ダーズリー氏は老人がスミレ色のマントを着ているのに気づいた。地面にバッタリはいつくばりそうになったのに、まったく気にしていない様子だ。それどころか、顔が上下に割れるかと思ったほど大きくにっこりして、道行く人が振り返るほどのキーキー声でこう言った。 「旦那、すみませんなんてとんでもない。今日は何があったって気にしませんよ。万歳! 『例のあの人』がとうとういなくなったんですよ! あなたのようなマグルも、こんな幸せなめでたい日はお祝いすべきです」  小さな老人はダーズリー氏のおへそのあたりをやおらギュッと抱きしめると、立ち去って行った。ダーズリー氏はその場に根が生えたように突っ立っていた。まったく見ず知らずの人に抱きつかれた。マグルとかなんとか呼ばれたような気もする。クラクラしてきた。急いで車に乗り込むと、ダーズリー氏は家に向かって走り出した。どうか自分の幻想でありますように… …幻想など決して認めないダーズリー氏にしてみれば、こんな願いを持つのは生まれて初めてだった。  やっとの思いで四番地に戻ると、真っ先に目に入ったのは――ああ、なんたることだ――今朝見かけた、あの、トラ猫だった。今度は庭の石垣の上に座り込んでいる。間違いなくあの猫だ。目のまわりの模様がおんなじだ。 「シッシッ!」  ダーズリー氏は大声を出した。  猫は動かない。じろりとダーズリー氏を見ただけだ。まともな猫がこんな態度をとるのだろうか、と彼は首をかしげた。それから気をシャンと取りなおし、家に入っていった。妻には何も言うまいという決心は変わっていなかった。奥さんは、すばらしくまともな一日を過ごしていた。夕食を食べながら、隣のミセス何とかが娘のことでさんざん困っているとか、ダドリー坊やが「イヤッ!」という新しい言葉を覚えたとかをおっとに話して聞かせた。ダーズリー氏はなるべくふだんどおりに振る舞おうとした。ダドリー坊やが寝た後、居間に移ったが、ちょうどテレビの最後のニュースが始まったところだった。 「さて最後のニュースです。全国のバードウォッチャーによれば、今日はイギリス中のふくろうがおかしな行動を見せたとのことです。通常、ふくろうは夜に狩をするので、昼間に姿を見かけることはめったにありませんが、今日は夜明けとともに、何百というふくろうが四方八方方に飛び交う光景が見られました。なぜふくろうの行動が急に夜昼逆になったのか、専門家たちは首をかしげています」  そこでアナウンサーはニヤリと苦笑いした。 「ミステリーですね。ではお天気です。ジム・マックガフィンさんどうぞ。ジム、今夜もふくろうが降ってきますか?」 「テッド、そのあたりはわかりませんが、今日おかしな行動をとったのはふくろうばかりではありませんよ。視聴者の皆さんが、遠くはケント、ヨークシャー、ダンディー州からおでんわをくださいました。昨日私は雨の予報を出したのに、かわりに流れ星がどしゃ降りだったそうです。たぶん早々と『ガイ・フォークスの焚き火祭り』でもやったんじゃないでしょうか。皆さん、祭りの花火は来週ですよ! いずれにせよ、今夜は間違いなく雨でしょう」  安楽椅子の中でダーズリー氏は体が凍りついたような気がした。イギリス中で流れ星だって? 真っ昼間からふくろうが飛んだ? マントを着た奇妙な連中がそこいらじゅうにいた? それに、あのヒソヒソ話。ポッター一家がどうしたとか……  奥さんが紅茶を二つ持って居間に入ってきた。まずい。妻に何か言わなければなるまい。ダーズリー氏は落着かない咳払いをした。 「あー、ペチュニアや。ところで最近おまえの妹から便りはなかったろうね」  案の定、奥さんはビクッとして怒った顔をした。二人ともふだん、奥さんに妹はいないということにしているのだから当然だ。 「ありませんよ。どうして?」  とげとげしい返事だ。 「おかしなニュースを見たんでね」  ダーズリー氏はモゴモゴ言った。 「ふくろうとか……流れ星だとか……それに、今日街に変な格好をした連中がたくさんいたんでな」 「それで?」 「いや、ちょっと思っただけだがね……もしかしたら……何か関わりがあるかと……その、なんだ……あれの仲間と」  奥さんは口をすぼめて紅茶をすすった。ダーズリー氏は「ポッター」という名前を耳にしたと思いきって打ち明けるべきかどうか迷ったが、やはりやめることにした。そのかわり、できるだけさりげなく聞いた。 「あそこの息子だが……たしかうちのダドリーと同じくらいの年じゃなかったかね?」 「そうかも」 「何という名前だったか……。たしかハワードだったね」 「ハリーよ。私に言わせりや、下品でありふれた名前ですよ」 「ああ、そうだった。おまえの言うとおりだよ」  ダーズリー氏はすっかり落ち込んでしまった。二人で二階の寝室に上がっていく時も、彼はまったくこの話題には触れなかった。  奥さんが洗面所に行ったすきに、こっそり寝室の窓に近寄り、家の前をのぞいてみた。あの猫はまだそこにいた。何かを待っているように、プリベット通りの奥の方をじっと見つめている。  ――これも自分の幻想なのか? これまでのことは何もかもポッター一家と関わりがあるのだろうか? もしそうなら……もし自分たちがあんな夫婦と関係があるなんてことが明るみに出たら……ああ、そんなことには耐えられない。  ベッドに入ると、奥さんはすぐに寝入ってしまったが、ダーズリー氏はあれこれ考えて寝つけなかった。  ――しかし、万々が一ポッターたちが関わっていたにせよ、あの連中が自分たちの近くにやってくるはずがない。あの二人やあの連中のことをわしらがどう思っているかポッタ一夫妻は知っているはずだ……何が起こっているかは知らんが、わしやペチュニアが関わり合いになることなどありえない――そう思うと少しホッとして、ダーズリー氏はあくびをして寝返りを打った。  ――わしらにかぎって、絶対に関わりあうことはない……。  ――何という見当ちがい――  ダーズリー氏がトロトロと浅い眠りに落ちたころ、塀の上の猫は眠る気配さえ見せていなかった。銅像のようにじっと座ったまま、瞬きもせずプリベット通りの奥の曲り角を見つめていた。隣の道路で車のドアをバタンと閉める音がしても、二羽のふくろうが頭上を飛び交っても、毛一本動かさない。真夜中近くになって、初めて猫は動いた。  猫が見つめていたあたりの曲り角に、一人の男が現れた。あんまり突然、あんまりスーッと現れたので、地面から湧いて出たかと思えるぐらいだった。猫はしっぽをピクッとさせて、目を細めた。  プリベット通りでこんな人は絶対見かけるはずがない。ヒョロリと背が高く、髪やひげの白さからみて相当の年寄りだ。髪もひげもあまりに長いので、ベルトに挟み込んでいる。ゆったりと長いローブの上に、地面を引きずるほどの長い紫のマントをはおり、かかとの高い、留め金飾りのついたブーツをはいている。淡いブルーの眠が、半月形のメガネの奥でキラキラ輝き、高い鼻が途中で少なくとも二回は折れたように曲っている。この人の名はアルバス・ダンブルドア。  名前も、ブーツも、何から何までプリベット通りらしくない。しかし、ダンブルドアはまったく気にしていないようだった。マントの中をせわしげに何かをガサゴソ探していたが、誰かの視線に気づいたらしく、ふっと顔を上げ、通りのむこうからこちらの様子をじっとうかがっている猫を見つけた。そこに猫がいるのが、なぜかおもしろいらしく、クスクスと笑うと、 「やっぱりそうか」とつぶやいた。  探していたものが内ポケットから出てきた。銀のライターのようだ。ふたをパチンと開け、高くかざして、カチッと鳴らした。  一番近くの街灯が、ポッと小さな音を立てて消えた。  もう一度カチッといわせた。  次の街灯がゆらめいて闇の中に消えていった。「灯消しライター」を十二回カチカチ鳴らすと、十二個の街灯は次々と消え、残る灯りは、遠くの、針の先でつついたような二つの点だけになった。猫の目だ。まだこっちを見つめている。いま誰かが窓の外をのぞいても、ビーズのように光る目のダーズリー夫人でさえ、何が起こっているのか、この暗闇ではまったく見えなかっただろう。ダンブルドアは「灯消しライター」をマントの中にスルリとしまい、四番地の方へと歩いた。そして塀の上の猫の隣に腰かけた。一息おくと、顔は向けずに、猫に向かって話しかけた。 「マクゴナガル先生、こんなところで奇遇じゃのう」  トラ猫の方に顔を向け、ほほえみかけると、猫はすでに消えていた。かわりに、厳格そうな女の人が、あの猫の目の周りにあった縞模様とそっくりの四角いメガネをかけて座っていた。  やはりマントを、しかもエメラルド色のを着ている。黒い髪をひっつめて、小さな髷にしている。 「どうして私だとおわかりになりましたの?」  女の人は見破られて動揺していた。 「まあまあ、先生。あんなにコチコチな座り方をする猫なんていやしませんぞ」 「一日中レンガ塀の上に座っていればコチコチにもなります」 「一日中? お祝いしていればよかったのに。ここに来る途中、お祭りやらパーティやら、ずいぶんたくさん見ましたよ」  マクゴナガル先生は怒ったようにフンと鼻を鳴らした。 「ええ、確かにみんな浮かれていますね」  マクゴナガル先生はいらいらした口調だ。 「みんなもう少し慎重にすべきだとお思いになりませんか? まったく……マグルたちでさえ、何かあったと感づきましたよ。何しろニュースになりましたから」  マクゴナガル先生は明かりの消えたダーズリー家の窓をあごでしゃくった。 「この耳で聞きましたよ。ふくろうの大群……流星群……そうなると、マグルの連中もまったくのおバカさんじゃありませんからね。何か感づかないはずはありません。ケント州の流星群だなんて――ディーダラス・ディグルのしわざだわ。あの人はいつだって軽はずみなんだから」 「みんなを責めるわけにはいかんでしょう」  ダンブルドアはやさしく言った。 「この十一年間、お祝いごとなぞほとんどなかったのじゃから」 「それはわかっています」  マクゴナガル先生は腹立たしげに言った。 「だからといって、分別を失ってよいわけはありません。みんな、なんて不注意なんでしょう。真っ昼間から街に出るなんて。しかもマグルの服に着替えもせずに、あんな格好のままで噂話をし合うなんて」  ダンブルドアが何か言ってくれるのを期待しているかのように、マクゴナガル先生はチラリと横目でダンブルドアを見たが、何も反応がないので、話を続けた。 「よりによって、『例のあの人』がついに消え失せたちょうどその日に、今度はマグルが私たちに気づいてしまったらとんでもないことですわ。ダンブルドア先生、『あの人』は本当に消えてしまったのでしょうね?」 「確かにそうらしいのう。我々は大いに感謝しなければ。レモン・キャンディーはいかがかな?」 「何ですって?」 「レモン・キャンディーじやよ。マグルの食べる甘いものじゃが、わしゃ、これが好きでな」 「結構です」  レモン・キャンディーなど食べている場合ではないとばかりに、マクゴナガル先生は冷ややかに答えた。 「今申し上げましたように、たとえ『例のあの人』が消えたにせよ……」 「まあまあ、先生、あなたのように見識のおありになる方が、彼を名指しで呼べないわけはないでしょう? 『例のあの人』なんてまったくもってナンセンス。この十一年間、ちゃんと名前で呼ぶようみんなを説得し続けてきたのじゃが。『ヴォルデモート』とね」  マクゴナガル先生はギクリとしたが、ダンブルドアはくっついたレモン・キャンディーをはがすのに夢中で気づかないようだった。 「『例のあの人』なんて呼び続けたら、混乱するばかりじやよ。ヴォルデモートの名前を言うのが恐ろしいなんて、理由がないじゃろうが」 「そりゃ、先生にとってはないかもしれませんが」  マクゴナガル先生は驚きと尊敬の入りまじった言い方をした。 「だって、先生はみんなとは違います。『例のあ』……いいでしょう、ヴォルデモートが恐れていたのはあなた一人だけだったということは、みんな知ってますよ」 「おだてないでおくれ」  ダンブルドアは静かに言った。 「ヴォルデモートには、私には決して持つことができない力があったよ」 「それは、あなたがあまりに――そう……気高くて、そういう力を使おうとなさらなかったからですわ」 「あたりが暗くて幸いじゃよ。こんなに赤くなったのはマダム・ポンフリーがわしの新しい耳あてを誉めてくれた時以来じゃ」  マクゴナガル先生は鋭いまなざしでダンブルドアを見た。 「ふくろうが飛ぶのは、噂が飛ぶのに比べたらなんでもありませんよ。みんながどんな噂をしているか、ご存知ですか? なぜ彼が消えたのだろうとか、何が彼にとどめを刺したのだろうかとか」  マクゴナガル先生はいよいよ核心に触れたようだ。一日中冷たい、固い塀の上で待っていた本当のわけはこれだ。猫に変身していた時にも、自分の姿に戻った時にも見せたことがない、射すようなまなざしで、ダンブルドアを見すえている。他の人がなんと言おうが、ダンブルドアの口から聞かないかぎり、敵対信じないという目つきだ。ダンブルドアは何も答えず、レモン・キャンディーをもう一個取り出そうとしていた。 「みんなが何と噂しているかですが……」  マクゴナガル先生はもう一押ししてきた。 「昨夜、ヴォルデモートがゴドリックの谷に現れた。ポッター一家がねらいだった。噂ではリリーとジェームズが……ポッター夫妻が……あの二人が……死んだ……とか」  ダンブルドアはうなだれた。マクゴナガル先生は息をのんだ。 「リリーとジェームズが……信じられない……信じたくなかった……ああ、アルバス……」  ダンブルドアは手を伸ばしてマクゴナガル先生の肩をそっと叩いた。 「わかる……よーくわかるよ……」  沈痛な声だった。  マクゴナガル先生は声を震わせながら話し続けた。 「それだけじゃありませんわ。噂では、一人息子のハリーを殺そうとしたとか。でも――失敗した。その小さな男の子を殺すことはできなかった。なぜなのか、どうなったのかはわからないが、ハリー・ポッターを殺しそこねた時、ヴォルデモートの力が打ち砕かれた――だから彼は消えたのだと、そういう噂です」  ダンブルドアはむっつりとうなずいた。 「それじゃ……やはり本当なんですか?」  マクゴナガル先生は口ごもった。 「あれほどのことをやっておきながら……あんなにたくさん人を殺したのに……小さな子供を殺しそこねたっていうんですか? 驚異ですわ……よりによって、彼にとどめを刺したのは子供……それにしても、一体全体ハリーはどうやって生き延びたんでしょう?」 「想像するしかないじゃろう。本当のことはわからずじまいかもしれん」  マクゴナガル先生はレースのハンカチを取り出し、メガネの下から眼に押し当てた。ダンブルドアは大きく鼻をすすると、ポケットから金時計を取り出して時間を見た。とてもおかしな時計だ。針は十二本もあるのに、数字が書いていない。そのかわり、小さな惑星がいくつも時計の緑を回っていた。ダンブルドアにはこれでわかるらしい。時計をポケットにしまうと、こう言った。 「ハグリッドは遅いのう。ところで、あの男じゃろう? わしがここに来ると教えたのは」 「そうです。一体全体なぜこんなところにおいでになったのか、たぶん話してはくださらないのでしょうね?」 「ハリー・ポッターを、伯母さん夫婦のところへ連れてくるためじゃよ。親戚はそれしかいないのでな」 「まさか――間違っても、ここに住んでいる連中のことじゃないでしょうね」  マクゴナガル先生ははじかれたように立ちあがり、四番地を指さしながら叫んだ。 「ダンブルドア、だめですよ。今日一日ここの住人を見ていましたが、ここの夫婦ほど私たちとかけ離れた連中はまたといませんよ。それにここの息子ときたら――母親がこの通りを歩いている時、お菓子が欲しいと泣きわめきながら母親を蹴り続けていましたよ。ハリー・ポッターがここに住むなんて!」 「ここがあの子にとって一番いいのじゃ」  ダンブルドアはきっぱりと言った。 「伯父さんと伯母さんが、あの子が大きくなったらすべてを話してくれるじゃろう。わしが手紙を書いておいたから」 「手紙ですって?」  マクゴナガル先生は力なくそう繰り返すと、また塀に座りなおした。 「ねえ、ダンブルドア。手紙で一切を説明できるとお考えですか? 連中は絶対あの子のことを理解しやしません! あの子は有名人です――伝説の人です――今日のこの日が、いつかハリー・ポッター記念日になるかもしれない――ハリーに関する本が書かれるでしょう――私たちの世界でハリーの名を知らない子供は一人もいなくなるでしょう!」 「そのとおり」  ダンブルドアは半月メガネの上から真面目な目つきをのぞかせた。 「そうなればどんな少年でも舞い上がってしまうじゃろう。歩いたりしゃべったりする前から有名だなんて! 自分が覚えてもいないことのために有名だなんて! あの子に受け入れる準備ができるまで、そうしたことから一切離れて育つ方がずっといいということがわからんかね?」  マクゴナガル先生は口を開きかけたが、思いなおして、喉まで出かかった言葉をのみ込んだ。 「そう、そうですね。おっしゃるとおりですわ。でもダンブルドア、どうやってあの子をここに連れてくるんですか?」  ダンブルドアがハリーをマントの下に隠しているとでも思ったのか、マクゴナガル先生はチラリとマントに目をやった。 「ハグリッドが連れてくるよ」 「こんな大事なことをハグリッドに任せて――あの……賢明なことでしょうか?」 「わしは自分の命でさえハグリッドに任せられるよ」 「何もあれの心根がまっすぐじゃないなんて申しませんが」  マクゴナガル先生はしぶしぶ認めた。 「でもご存知のように、うっかりしているでしょう。どうもあれときたら――おや、何かしら?」  低いゴロゴロという音があたりの静けさを破った。二人が通りの端から端まで、車のヘッドライトが見えはしないかと探している間に、音は確実に大きくなってきた。二人が同時に空を見上げた時には、音は爆音になっていた。――大きなオートバイが空からドーンと降ってきて、二人の目の前に着陸した。  巨大なオートバイだったが、それにまたがっている男に比べればちっぽけなものだ。男の背丈は普通の二倍、横幅は五倍はある。許しがたいほど大きすぎて、それになんて荒々しい――ボウボウとした黒い髪とひげが、長くモジャモジャと絡まり、ほとんど顔中を覆っている。手はゴミバケツのふたほど大きく、革ブーツをはいた足は赤ちゃんイルカぐらいある。筋肉隆々の巨大な腕に、何か毛布にくるまったものを抱えていた。 「ハグリッドや」  ダンブルドアはほっとしたような声で呼びかけた。 「やっと釆たね。いったいどこからオートバイを手に入れたね?」 「借りたんでさ。ダンブルドア先生様」  大男はソーツと注意探く車から降りた。 「ブラック家のシリウスっちゅう若者に借りたんで。先生、この子を連れてきました」 「問題はなかったろうね?」 「はい、先生。家はあらかた壊されっちまってたですが、マグルたちが群れ寄ってくる前に、無事に連れ出しました。ブリストルの上空を飛んどった時に、この子は眠っちまいました」  ダンブルドアとマクゴナガル先生は毛布の包みの中をのぞき込んだ。かすかに、男の赤ん坊が見えた。ぐっすり眠っている。漆黒のふさふさした前髪、そして額には不思議な形の傷が見えた。稲妻のような形だ。 「この傷があの……」マクゴナガル先生がささやいた。 「そうじゃ。一生残るじゃろう」 「ダンブルドア、なんとかしてやれないんですか?」 「たとえできたとしても、わしは何もせんよ。傷は結構役に立つもんじゃ。わしにも一つ左膝の上にあるがね、完全なロンドンの地下鉄地図になっておる……さてと、ハグリッドや、その子をこっちへ――早くすませたほうがよかろう」  ダンブルドアはハリーを腕に抱き、ダーズリー家の方に行こうとした。 「あの……先生、お別れのキスをさせてもらえねえでしょうか?」  ハグリッドが頼んだ。  大きな毛むくじゃらの顔をハリーに近づけ、ハグリッドはチクチク痛そうなキスをした。そして突然、傷ついた犬のような声でワオーンと泣き出した。 「シーッ! マグルたちが目を覚ましてしまいますよ」  マクゴナガル先生が注意した。 「す、す、すまねえ」  しゃくりあげながらハグリッドは大きな水玉模様のハンカチを取り出し、その中に顔を埋めた。 「と、とってもがまんできねえ……リリーとジェームズは死んじまうし、かわいそうなちっちゃなハリーはマグルたちと暮さなきゃなんねえ……」 「そうよ、ほんとに悲しいことよ。でもハグリッド、自分を抑えなさい。さもないとみんなに見つかってしまいますよ」  マクゴナガル先生は小声でそういいながら、ハグリッドの腕を優しくポンポンと叩いた。  ダンブルドアは庭の低い生垣をまたいで、玄関へと歩いていった。そっとハリーを戸口に置くと、マントから手紙を取り出し、ハリーをくるんだ毛布にはさみこみ、二人のところに戻ってきた。三人は、まるまる一分間そこにたたずんで、小さな毛布の包みを見つめていた。ハグリッドは肩を震わせ、マクゴナガル先生は目をしばたかせ、ダンブルドアの目からはいつものキラキラした輝きが消えていた。 「さてと……」  ダンブルドアがやっと口を開いた。 「これですんだ。もうここにいる必要はない。帰ってお祝いに参加しようかの」 「へい」  ハグリッドの声はくぐもっている。 「シリウスにバイクを返してきますだ。マクゴナガル先生、ダンブルドア先生様、おやすみなせえ」  ハグリッドは流れ落ちる涙を上着の袖でぬぐい、オートバイにさっとまたがり、エンジンをかけた。バイクはうなりを上げて空に舞い上がり、夜の闇へと消えていった。 「後ほどお会いしましょうぞ。マクゴナガル先生」  ダンブルドアはマクゴナガル先生の方に向かってうなずいた。マクゴナガル先生は答のかわりに鼻をかんだ。  ダンブルドアはクルリと背を向け、通りのむこうに向かって歩き出した。曲り角で立ち止まり、また銀の「灯消しライター」を取り出し、一回だけカチッといわせた。十二個の街灯がいっせいにともり、プリベット通りは急にオレンジ色に照らし出された。トラ猫が道のむこう側の角をしなやかに曲がっていくのが見えた。そして四番地の戸口のところには毛布の包みだけがポツンと見えた。 「幸運を祈るよ、ハリー」  ダンブルドアはそうつぶやくと、靴のかかとでクルクルッと回転し、ヒュッというマントの音とともに消えた。  こぎれいに刈り込まれたプリベット通りの生垣を、静かな風が波立たせた。墨を流したような夜空の下で、通りはどこまでも静かで整然としていた。まか不思議な出来事が、ここで起こるとは誰も思ってもみなかったことだろう。赤ん坊は眠ったまま、毛布の中で寝返りを打った。  片方の小さな手が、わきに置かれた手紙を握った。自分が特別だなんて知らずに、有名だなんて知らずに、ハリー・ポッターは眠り続けている。数時間もすれば、ダーズリー夫人が戸を開け、ミルクの空き瓶を外に出そうとしたとたん、悲鳴を上げるだろう。その声でハリーは目が覚めるだろう。それから数週間は、いとこのダドリーに小突かれ、つねられることになるだろうに……そんなことは何も知らずに、赤ん坊は眠り続けている……ハリーにはわかるはずもないが、こうして眠っているこの瞬間に、国中の人が、あちこちでこっそりと集まり、杯を挙げ、ヒソヒソ声で、こう言っているのだ。 「生き残った男の子、ハリー・ポッターに乾杯!」